
伊藤 計劃と円城 塔による合作というロマンティックな背景は別として、一つの物語として非常に高いレベルで成立している。あえて難しい言葉を簡単にし、簡単な表現を難しくし、結果読みづらさを少し助長することになると思うのだが、非常に魅力的な小説だった。
人間は年表のような記録ではなく、記憶として、つまり物語として存在しうる一方、その物語は容易に書き換えられてしまう。全てが効率化を求め、死者を屍化することにより記号化し、道具として扱う「屍体」は、ロボットや奴隷制度がない世界線における資本主義の未来の一つを表現している。
死してもなお道具としての存在として、現代のロボット技術のように使われているパラレルワールドにおいて、「私の中のわたし」「自我の中の他我」の真実を追い求めてワトソン博士は世界をめぐる。
様々な人物のオマージュと共に、自分が自分であることの証明を探す旅はある段階で一旦終わりをみるが、さらに続く。全てのものがもつ言葉の持つ力に感染症と同じ効果を見出し、畏れ、その力を表現するこの本は、00年代のSFというよりも、新しいジャンル(「未知との遭遇」のような)を切り開き、次の世代へと受け継がれていくのだろう。
「本当の私」は「わたし」にも判別がつかず、他者と比較しても自身を確立することはできない。確かに息づいている身体と心は全くの別物で、身体は魂の容れ物に過ぎないが、容れ物なしに魂は存在しない。せめて自分のつむいだ言葉だけは、記録として記憶に残され、物語という形式をもって語られることができるだけでも、幸福なことなのかもしれない。
ただ、ここまで皆深く人生を考えているかというとそんなことはなく、おそらく80%以上の人は(自分も含めて)、昨日も、今日も大して変わらない生活を送っているのだろう。刺激のない生活が幸福かどうかは全く別の話なのだ。
屍者の帝国
十九世紀末、医学生ワトソンは大英帝国の諜報員となり世界を駆ける。伊藤計劃の未完の絶筆を円城塔が完成させた奇蹟の超大作。
楽天ブックス ¥858
