外からは決して見えない家族の色

先日、ふと思ったことがある。数年前、ちょうど今の時期に2ヶ月の間にご両親が亡くなられた知人がいた。そのことをしばらくした後SNSに近況報告としてアップした。すぐにお悔やみや哀悼のコメントが付く。そこに一つのコメントが付いた。

「大変でしたね。でもご両親も向こうでまた仲良くしていることでしょう」

知人はこう返答していた「両親は不仲だったので。今度は仲良くしてくれていると良いのですが」

そのとき私は何かかいけないものを見てしまったような、ささくれのように引っ張られたようなチクっとした痛みを感じた。放っておけばいつか治るものだと分かっていても、指先が何かに触れるたびに、その違和感が意識をそこへ引き戻される。おそらくお悔やみを書いた人は家族仲が良い人なのだろう。だから他の人も当然そうなのだと考えていたのだと思う。

自分の家族を振り返ると、私の両親は仲が悪い方ではないと思う。私が高校の時までは実家のある札幌もバブルで賑わい、父はほとんど仕事と接待で家にいなかった。バブルが弾けてからは家にいる時間が増えたが、それほど家族での会話はなかったはずだ。

大きく両親の関係が変わったのは、60歳で母の足が悪くなり、そのリハビリを兼ねて体を動かすために小さな畑を借りてからだと思う。野菜を育てることに、文字通り二人とも心血を注いでいた。もともと農家だった母が先導して畑作りをしていた。よく短気な父が言うことを聞いて畑作りをしていたと思う。その畑も二人が年を取ったせいもあり閉めてしまった。

その後、母が道路で転んでしまい骨折し、杖無しでは歩けなくなった。雪が降るととても一人では歩けない。今年は特に雪が多く心配していたのだが、先日母と電話で話していると、雪道を歩くときは父と手を繋いで歩いているのだと嬉しそうに話していた。災い転じて福となすとはこのことだろうか。

自分の家族がたまたま仲が良いという話をしたいのではない。他人の家庭というものは、外からは決して見えない色をしている。 そこに、世間一般的な「幸せ」の定義をあてがうことはできないし、するべきではない。他者の善意が、意図せず相手の傷を撫でてしまうことがある。あるいは、自分が見ている風景が、実は他人の目には全く別の陰影を持って映っているかもしれない。


今はただ逝った人も、残された人も、それぞれに穏やかに季節を過ごせるように祈るばかりだ。






この記事を書いた人

妻と愛犬ジェイド(女の子)と暮らしています。 老眼鏡を新調したのを機に、積読していた本を少しずつ読み始めました。

派手な生活ではありませんが、犬と眼鏡と本と音楽とコーヒーあれば十分。そんな日々の断片を、記憶がわりに書き留めています。