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辺境・近境(村上春樹/新潮社)
「?」そのあとの「!」
本を読んでて「?、読んだことあるかも?」ということが何冊かある。この本は僕にとってまさにその類の本で、メキシコのあたりから「?」になり、香川の讃岐うどんで「!」となるのである。もう5回くらい読んでいるかも。しかたがない。好きな音楽はは何度聴いても良いのだ。
さて、僕は決して村上春樹大好き!というわけではない(もちろん好きな作家の一人です)。でも合わない作品は途中で放り出すことも結構ある。僕は今まで、彼の作品は割に平坦で冷静で起伏に富むことは少なく、平面のような文字通り2次元上の紙の上にある世界だと思っていた。しかしこの本を5回読んでその考えは変わった。
5回目では、チベットが「がちっ」とはまってしまった。前は、うどん、その前は、神戸とメキシコ、その前はアメリカの話ではまった気がする。
1ヶ月旅をするメキシコも、アメリカ横断も、四国の香川県のうどんも、神戸を歩くのも同じように語ることのできる彼独特の軸(があるんじゃないだろうか(それが感性なのだろうけど)。それはオリジナルの時間軸のような気がする。
3時間の話を20ページ書き、1ヶ月の話に60ページを割く(あくまでも例えばです)ということは、それらが等しく平らにページに収まるように扱われているのだ。何が平等なのかというと、そこで村上春樹自信が感じた「出来事に対する思いを費やした時間」だ。
つまらなければ速く、興味深ければ遅く進むその時計の進み方と自分の感覚がうまくシンクロすると本当に気持ちよい。頑丈な四輪駆動車の車輪が道に開いた穴ぼこに、これ以上無いタイミングではまるように。僕の場合だとエッセイやメモアールに多いが「遠い太古」「走ることについて」とか良い例だ。
何も起こらない中で何を自分は感じるのかを味わう旅
2次元の地図の上を進む彼の時間軸によるエッセイという村上春樹的3次元世界。彼が感じたこと、どうでも良いと思ったこと、生ビールを何杯のんでいるのか。
締め切りやページ数が決まっている中で、その彼を通したこの世界は、どこに時間をかけるのか、何を感じるのか、何を感じたのか。そのタイミングがいつ、どこでくるかわからず、そして都度、機知に富み非常に興味深かった。
マラソンが好きな著者は、決まった距離を極力同じリズムで走り続けること(もちろん、様々な条件で難しいけど)。それも一つの「限られた距離の中での時間」という考え方で見るとどうなるのだろう。
残念ながら彼のように、ある程度規則的に進む針をもたないではない僕の時計は、また同じ本を読んで違う感想を書くのかもしれない。けれども、村上春樹はおそらく心に自分だけの時計(時間)をもっている、といっても良いと思うぞ、と僕は勝手に確信した。
これを意識して読めば、また次の村上春樹の本が彼の3次元的世界を、まさに「行ってみなくてはわからない」旅のように、「読んでみなくてはわからない」彼の世界を自分の肌で感じる位に読めるんじゃないかと思うと楽しみでならない。(知らなかったのが僕だけだったら今更ですいません)
旅は自分を変え、自分で想像した「こうであるはず」の旅を追記憶していくものだ。でもその奥深さは、やはり筆者の言うとおり、自分が何を見て、何を触って、感じて、そして自分というバイアスを通して何を伝えるかなのだと思う。
だから近境も辺境も実は心持次第で、散歩も、通学路も、通勤も全てが旅となりえるのじゃないかと思う位、突発的で偶発的なことだけじゃない、何も起こらない中で何を自分は感じるのかを味わう旅をしたいと思った。そしてそうすればハプニングもより一層楽しめるのではないかと思うのだ。